
このページは、幕張ベイタウン・コアの設立に深く関わった下川正晴氏の人物像と、その役割を記録するためのものです。
下川正晴は1997年にコミュニティコア研究会を立ち上げ、千葉県企業庁・千葉市教育委員会などと折衝する一方、住民サイドを盛り上げ、行政・建築家・住民によるコミュニティ施設設立に極めて大きな寄与をした人物である。
下川は大阪大学法学部出身。毎日新聞に入社し、ソウル支局長を経て論説委員を務めている。いわゆる全共闘世代にあたり、大学生時代には大阪市役所の職員採用における民族差別を糾弾するデモに参加している。1973年に毎日新聞社に入社後も、指紋押捺反対運動などを取材するなど在日韓国・朝鮮人の権利を守る運動に関心を持ってきた。また、大学生に紙面を担当させるキャンパる編集長を担当した。
心筋梗塞による病気療養で自宅のある幕張ベイタウンにいたが、この偶然のタイミングによって県企業庁が進めようとしていた幕張ベイタウンの中核コミュニティ施設(仮称:コミュニティコア)設立への住民参加活動に手をあげることになる。以降の詳細は他資料に譲るが、下川という機関車はコミュニティコア研究会を立ち上げ、以降多くの人を巻き込みながら驀進することとなった。
下川は公開の会議を仕掛け続け、参加者名簿を作り、参加者に何らかの役割を割り振るという手法を採った。コア研には図書館について関心を持つもの、建築に関心を持つもの、音楽演奏環境に関心を持つものなどが集った。そのさまざまな専門性を持つ人々にそれぞれの専門性を活かしてもらうのである。
コア研の活動を進めるに当たって、きわめて重視した 2 大原則がある。それは「情報の共有化」「公開的な討論」の 2 つである。ニューカマーばかりで構成される新しい街で腹蔵のない議論を交わすには、特定の集団や個人に情報が集積する現象は厳に戒めるべきだ。これは新聞記者を職業とする僕にとって、自明の大原則だった。
そして「公開的な討論」。コア研の集会には、誰でも参加できるようにした。集会開催を知らせるポスター掲示のために「メディア担当」を、早々に各番街に作ったのも、この「情報共有」「公開討論」原則を重視したからだ(コアと私 p.8)
「住民のさまざまな要求をどう建築家への要望項目として具体化するか」という問題だった。しかし、それはスムーズに解決された。各分野の専門家がベイタウンに居住しており、その人たちがコア研の会合に参加して、「こうしたらどうでしょうか?」と積極的に発言し、活動し始めたからだ。
コアの建設は多くの住民の数限りない知恵と熱意に支えられてきた。その代表的なメンバーの幾人かが、この「コアと私」に文章を寄せている。「音響重視のホール」の基本コンセプトを提示した交響楽団ステージマネージャーの浪岡尊志さん(当時 9 番街)、音響システムを構築した今川大介さん(GPW)、コアのピアノ選定に尽力している隅山雄介さん(GPW)たちである。コア研に参加した動機、思いは各文章に端的に表現されている。
(コアと私 p.9)
コミュニティコア計画は当初の500人規模のホール+プチホテルという壮大なものから公民館レベルにまでスケールダウンしていたが、それでも施設を特徴付ける要素を大切にしようとした。この中で、住民のこれまでの活動やニーズ調査に加え、浪岡の千葉県には音響の優れた小規模なホールが少ないというプロオケのステマネならではの報告が元になり、小規模でも生音重視のホールを備える事がコンセプトとして確定していった。
そこに新たに加わってきた人材が、ホール電気音響に詳しい音響会社社員の今川大介と、導入するピアノに関する提案をしてきた私立中高一貫校講師の隅山雄介である。
今川は業界の人間であるから充分に期待できる。しかし、隅山の担当教科は理科。言ってみれば単なる趣味の人でしかなく、ピアニストでも調律師でも楽器商でもない。常識的に考えて、単なる楽器オタクとしか考えられないような人物に、ホールの顔となるピアノについて任せられるのかどうか。
おそらく、下川はそこで一定の担保を確保しようとしたのだろう。隅山をピアノ選定事務局長に据えた。「事務局」である。つまり、オタクの意見を通すのではなく意見を収集する側に回らせようとした可能性が充分ある。しかし、隅山は意見を集める一方、あらゆるピアノの特徴を調べ、私費で各地を訪れあらゆるピアノを試弾し、幕張ベイタウンという21世紀を先取りする未来都市のコンセプトと生音重視のホールのコンセプトを十分に理解した上で、フルコンサートグランドの必要性と、未来性やホールの特性や規模とのマッチングでスタインウエイではなく、国内でほぼ無名のイタリアの新興ピアノメーカー、ファツィオリを提案してきたのである。
通常であれば一流と呼ばれるピアニストや音大教授に意見を求めるなどで、既にそうしたものが関係を持っているメーカーであるスタインウエイ、ヤマハ、カワイあたりに収まっていくわけである(その結果、ホール規模と楽器のミスマッチも往々にして起きている)。当時の公共ホールにおける選定ではまず考えられない選択肢であった。
しかし、下川はその隅山の意見に傾く。隅山は多くの反対を乗り越えながら、その熱意で音楽講師などを味方にし、ファツィオリ導入を実現してしまったのである。この選択は、後にファツィオリがショパンコンクールの公式ピアノとなり、世界中から称賛されるピアノメーカーとして知られるようになったことで最良の選択であったことが証明された。
更に、隅山は設立段階でも独特な考え方で会議ポスターをデザインするなどで腕をふるっていたが、会館後はキッズプロジェクトというイベントの中核となったり、音響や照明のスタッフとなるなどしてコアのイベント運営でも中心的な役割を果たしていくことになる。いわばコアの顔とも言える存在になっていった。
もし、下川が隅山という存在を拾い上げることができていなかったら、幕張ベイタウン・コアは普通の公民館として運用されるのみの、単なるハコモノで終わっていた可能性すらあるのである。
下川の行動力や考え方は幕張ベイタウン・コアを設立・運営する上できわめて重要であったが、隅山を見いだしたことはその最大の果実であったと言える。
なお、隅山は正規代理店と交渉し新古品を格安で購入する条件を引き出したが、千葉市の予算は全く足りなかった。そこで建築家の高谷時彦氏がチャリティコンサートを提案したのだが、下川はそれを開館後も住民が施設運営に関わり続ける仕組みとして利用したのである。のちに下川が取材したイタリアの篤志家チェスキーナ洋子に、諸般の事情を説明し寄付を願った結果、思いの外大きな額が寄付されたため借金が完済されてしまった。購入運動はこれで完遂したのであるが、実はこの時下川は住民活動の継続性を失わせるものであると頭を抱えてもいた。
そこで購入資金の残額を原資に、街の音楽文化育成に貢献する基金の設立などの新たなアイディアをすすめようともしていた。
だが、下川は毎日新聞を退社し韓国に渡る決断をしたことで、そのコンセプトを生かすことなくコア研での活動に突然終止符を打っている。
下川のベイタウンでの活動を振り返ると、キャンパるで大学生それぞれに紙面を任せるやり方と同じことをしていたことが見えてくる。この考え方の源流は、おそらく68年世代の理念にあるのであろう。下川の行動様式を読み解く鍵は、彼が大学時代を過ごした1968年前後の時代背景にある。いわゆる全共闘世代として、「市民が主体となって社会を変える」という理念を体で学んだ世代である。しかし多くの同世代が企業社会に「転向」していった中で、下川はジャーナリズムという職業を通じてその理念を手放さなかった。
重要なのは、キャンパるもベイタウンも、その方法論が同じであるという点だ。素人・市民を主役にして、情報を共有し、公開の場で議論させる。これは68年世代が「制度を外から壊す」という方向性を諦めた後、「制度の内側で市民を主役にする」という形に転換した実践とも読める。
つまり下川のベイタウンでの活動は、単なる地域貢献ではなく、68年世代としての理念が30年の時を経てコミュニティという場で結実したものだったと言える。
〔文責:隅山〕
追記:
本稿を記述した隅山は2026年現在55歳。まさに下川が幕張ベイタウンでの活動に区切りを付けて韓国に向かう決意をした歳である。その区切りの年齢に隅山は過去をまとめ直し、評価し直し、後世の研究者のためのデジタルアーカイブを構築している。
不思議な因縁にも感じるが、これは偶然ではない。55歳という年齢が自己を振り返る区切りになりやすい年齢であるためだ。
これをきっかけに、コミュニティ施設の立ち上げから運営まで住民が関与し続けたレアケースが、広く再評価されることを願っている。
現在、当時を振り返る上で、下川の功績を痛感する。下川の功績は様々あるが、ジャーナリストとして記録し公開することを重視したことはその中でも重要な点である。旧サイトにおいては当時の多くの会議の議事録が残されている。これは今の時点で当時を振り返る上で極めて重要な一次資料になっている。旧サイト自体も隅山が構築しデータを集積したのではあるが、議事録が明確に残されていなければ収録することもできなかった。
下川は突然に去ってしまったが、形を変えて68年世代の試みは生き続けている。
(当時:コミュニティコア研究会 共同代表)